多良地区にある歴史・風景遺産の紹介 |
揖斐・関ヶ原・養老国定公園、岐阜県の名水五十選、飛騨美濃紅葉三十三選にも選ばれている西美濃の名勝・多良峡。
牧田川のせせらぎ、四季折々の異なる景観が楽しめる癒しのスポットです。特に秋の紅葉シーズンは訪れる観光客も多く、最近では読者投稿型の旅行サイト・リトリップでも紹介されています。
延宝元年(1673年)の棟札がある古社。
うっそうと茂った鎮守の森は原生林に近く、知られざるパワースポット。そばを流れる鍛冶屋川沿いの道も散策するのに心地よい場所です。
延長5年(927年)編纂の「延喜式神明帳」にも記載される古社で、社格も高く、多良地区の総社として、人々の崇敬を集めています。幹の周囲5mものスギが林立する社叢は、県の天然記念物にも指定されており、辺りには太古の風情が漂っています。境内には江戸時代、茶商人が納めたという茶灯篭が残っており、多良地区がお茶の栽培が盛んであったことがわかります。
文政年間(1818-1830年)の建物と伝えられ、三度の改修がされ、今日に至っています。
「なまこ壁」(瓦を張り付け、漆喰で縁取りする)が施された白壁造りのどっしりとした構造で、とても趣きがあります。
かつてはこの土蔵の横を伊勢街道が通っていました。今もわずかにその名残がみとめられます。
表門は嘉永5年(1852年)建設の下屋敷の御門を移転したものであり、主屋は天保3年(1832年)に建物が再編された貴重な近世武家住宅です。
敷地内には京都の高雄から移植されたという高さ15mのもみじの大木があり、秋には素晴らしい紅葉がみられます。
※国指定の名勝になったため、平成26年12月8日付けで大垣市景観遺産の指定を解除しました。
宝暦4年(1754年)から宝暦5年(1755年)に薩摩藩が行った宝暦治水を記念して、幕府方の水行奉行であった上石津の高木三家に薩摩藩により松並木が植えられたと伝えられています。
現在は東高木家屋敷跡に残る最後の日向松の大木です。
史跡
◆舛屋伊兵衛顕彰碑 三ツ里(松之木)
江戸時代中期、幕命により、家老の平田靭負をはじめとする薩摩藩の多くの武士たちが木曽三川の治水工事に従事した宝暦治水。
この時、水行奉行として監督を務めたのが多良の高木三家でした。
舛屋伊兵衛は高木内膳(東高木家)の家来で江戸に住んでいましたが、宝暦4(1754)年に美濃に戻り、同年9月2日に工事の無事を祈って荒れ狂う大洪水の濁流に身を投じて人柱となりました。
この碑は伊兵衛の遺徳を偲び、それを後世に伝えるため、平成10年(1998年)に建立されました。
市指定記念物
◆島津豊久の墓 上多良(樫原)
上石津は天下分け目の合戦が行われた関ヶ原のすぐ隣にあり、島津の退路にもあたるため、阿多長寿院盛淳の墓をはじめ、関連の遺跡や言い伝えがいくつか残っています。
島津維新(義弘)の甥・島津豊久も義弘を逃がすために獅子奮迅の働きをしましたが、深手を負い、自害して果てたとされ、その墓は関ケ原から牧田に至る烏頭坂にあります。
しかしながら、実は豊久は烏頭坂ではなく、多良の上多良で死んだというもう一つの伝説があります。
文化9年(1812年)島津藩の記録『倭分麻環』によると、
「関ケ原より山路を越えて四里半ばの地、美濃国樫原村に高輪寺瑠璃光寺という寺があり、そこに島津塚と称えるところがあります。これが豊久の墓地であります。土地の人の話によると、三輪内助入道一斎という人が豊久の遺骸をこの地に葬り瑠璃光寺を建て菩提所とせり」
と記されています。
島津豊久は享年31歳の若さでした。豊久の墓のある林を官林藪といいます。
企画・制作 多良地区まちづくり協議会 広報部会
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